ごあいさつ
社会福祉法人 円福会
児童養護施設 円福寺愛育園 理事長 藤本光世
児童養護施設円福寺愛育園は、先の戦争後に上野駅に群れる戦災孤児を憐れんだ円福寺住職藤本幸邦が、3名の子ども達を円福寺に連れてきたことから始まった。
当時、戦災孤児は全国で12万人と言われた。全国の寺院が戦災孤児を一人ずつ引き受ければ、たちどころに戦災孤児はいなくなる。藤本幸邦はこう考えて、全国に一寺院一孤児運動を提唱したのである。それは、昭和23年5月5日の朝日新聞トップ記事となって全国に報道された。先ず、自分がやらなければと、孤児を引き取ったのである。
当時のことを初代園長藤本幸邦は創立30年誌『愛の花園』に次のように書いている。
『今も私はあの敗戦の悲しみを忘れることはできません。しかもあの上野の駅に群れていた、いたいたしい戦災孤児の姿は悲しく、戦後の世相は、賽の河原の風よりも冷たかったのであります。今こそ仏者が立つべきときであると、生命をとどめて北支の戦線から復員した私は、何とかしてこの子ども達を救いたいと思い「全国の寺院に孤児一人ずつ」という寺院里親運動をおこしました。家内もまだ嫁に来たばかりでしたが、年老いた母の協力を得て二三の子どもを育てはじめましたが、戦後の貧困が底をつき、お粥をすすったり、もろこしのふかしパンを食べたり、芋のつるまで入れたお雑炊、はては、醤油の代わりにお葉漬の水までつかい、着せるものが無くて、お寺の吹き流しを裁ってシャツを作ったり、昔、お供の着た六文銭の大きな紋が背中にある円福寺の紺のはんてんをズボンや足袋にしました。「年老いた私にまでこんな苦労をさせて」と母がなげきました。農地解放によって寺有地を失い、檀家三十戸余りの円福寺には何の収入もなかったのですが、私のやむにやまれぬ思いがありました。家内も「お嫁に来る前にはこんな仕事をするというお話はありませんでした」と申しましたが「お経を読んでいるばかりが和尚ではない、み仏の大慈悲心は人みな吾が子であるという大きな愛である。この子ども達を吾が子として救い育てるのだ」と言い聞かせて励ましました。
昭和23年5月5日、児童福祉法施行の日、私の寺院里親運動は朝日新聞のトップ記事となって全国に報道されました。当時長野県には善光寺大勧進さまが明治時代から経営して来られた育児院三帰寮があっただけでしたから、そのような志であるなら是非施設をやってほしいという県の依頼のままに、円福寺の庫院をそのまま施設とし、私が園長兼指導員兼書記、家内が保母兼炊事婦ということで定員十名の円福寺愛育園を創立し、7月1日付で認可を受けました。そして私は、あくまで家庭的小施設を志していました。家内はどこかに施設を建てて、事業としてやってほしい、そんなに子どもを連れ込まれては困る、自分の子どももあることですからと希望しましたが、「子どもの求めている愛情を満たしてやるのには施設よりも家庭にまさるものはないのだから自分の子どもと一緒に育てなさい」と言い聞かせると家内は「親子水入らずということはなくなりましたね」とため息をもらしました。「愛育園の子どもを含めて親子水入らずにするのだ」と私が申しましたが「ご修行なさった和尚さまと私はちがいます。私は凡人ですから」と家内に泣かれたこともありましたが、養鶏のひなは電熱でも育つが、人の子の心は親鶏の翼の中であたたかく抱いてやらねば育たぬというのが私の持論でしたから、愛育園の子どもも吾が子として抱こうとしたのでありました。それは里親の延長であって、戦災の孤児、また戦後の貧困による不遇児を救えばよいと思ったまでで、よもや今日のような児童福祉施設としての愛育園になろうとは思いもよらぬことでした。ところが当時県下に養護施設が少なかったために、定員を越えて子ども達が次々に入園してきました。やむなく定員を二十名にし、更に三十名にしました。』
以来当園は平成30年度に創立70周年を迎えました。高度経済成長を経て社会は大きく変わり、児童養護施設に措置される子どもたちは変化しました。虐待、発達障害等を背負った子どもが増え、子ども達の養育は厳しさを増しています。70年の間には多くの困難が何度もありました。円福寺愛育園は多くの人に支えられ、それを一つ一つ乗り越えて、今があります。
円福寺愛育園は今、初代園長藤本幸邦が考え、建設した中舎制園舎の特長を生かして、児童の最善の利益(幸せな生涯を送ること)のために、児童に自立の力をつける教育的児童養護施設をめざしています。それはきっと、全国のどこにもない代替養育の実践となるでしょう。
皆さん、子ども達の最善の利益のために手を携えて進みませんか。
円福寺愛育園は、開かれた施設です。全てをお見せいたします。お話いたします。そして、一緒に、真実の児童養護の道を拓き、子どもたちに自立の力をつける児童養護施設の道を切り拓きましょう。全ては実践と、その事実が語るのです。
理事長より
11/13 レイクチェイ小学校とタプル小学校の校舎竣工式典に出席しました。
子どもたちの出迎えの中を校地に入りました。
式場にはテントが張られて、住民が待っていてくれました。
右側のテントと新校舎
左側のテントと、1994年に円福友の会が建設した旧校舎
県知事さんが到着して、壇上に整列しました。知事さんはもっとも前の席に座っています。
一緒に参加してくれた円福友の会のメンバー
子どもたちへのプレゼント
主賓壇と司会者 後方は旧校舎
あいさつ
建設に尽力してくれたキムさんが通訳です。
明さんが私のポスターを皆さんに見せてくれました。
知事さんから感謝状をいただきました。
感謝状をかざして
両国の国旗をかざして
知事さんの演説 日本とカンボジアの友好について触れました。
子どもたちにプレゼントをしました。
新しい校舎の教室入口でテープカット
団員によるテープカット
知事と私による除幕
看板の前で記念撮影
式典の後で、箸ピー大会を開催しました。子どもたちは練習してあって、箸使いが上手でした。動画でもご覧になってください。
優勝チームの選手に国際箸学会の小宮山会長よりメダルが授与されました。
校舎を大切に使う約束の看板 白アリ被害の防止をします。壊れたらすぐに修理します。落書きはしません。
前区長リティプォーンさんの秘書と現地窓口としてよくやってくれました。
タプル小学校の校舎贈呈看板の下で。
プノンペンに戻って、みんなでキムさんを表彰しました。
感謝状贈呈
メダル贈呈
キムさん
12/3 初代園長七回忌祭事の様子が、長野市民新聞に掲載されました。
10/14~20 の日程でカンボジア支援旅行に行っていました。
スラムの子どもたちと歌や箸ピーゲームや皿回しで交流しました。
円福友の会が1994年に建設した。カンポット県のタプル小学校とプレイクチェイ小学校に入りました。
SVAカンボジアのステラさんの紙芝居の読み聞かせと、箸ピーゲームの子どもたちの元気な集中した姿を見ました。
校舎の傷みに心を痛め支援の方向を考えました。
今日はエコ村小学校に入りました。
パンニャサストラ大学の学生の指導で、子どもたちの大きな声が教室に響きました。
改めて、地元の人たちによる指導こそ重要で、日本人の一人よがりの押し付けの支援はダメだと強く認識しました。
子どもたちが慕ってくれて来てくれて嬉しく、別れるのが辛くなりました。
井戸を贈った皆さんがとても喜んでくれました。
6/21 讀賣新聞全国版 17面に当園の記事が掲載されました。
6/11 あいさつの日
篠ノ井あいさつ運動駅前行動に園長が参加しました。
園長は篠ノ井あいさつ運動実行委員長です。
園長より
藤本光世理事長先生 瑞宝小綬章受章祝賀会
10月21日(日)メトロポリタン長野にて祝賀会がありました。
40年に渡る高校教員、松本深志高校校長、上田高校校長等を歴任し高校再編などご尽力され、その功績が評価され瑞宝小綬章受章という名誉ある勲章をいただくことができました。
当園理事長として、この勲章は私たちの誇りでもあります。
当日の祝賀会にも200名以上の方々がご出席され、盛大に行われました。
理事長先生、笑顔でご挨拶
祝賀会は盛大に行われました
奥様と2ショット。内助の功があってこそ